「献灯使」(多和田葉子著)を読む。
なぜこの本を選んだのかよく覚えていない。たぶん書評で読んだのだろう。だが内容はすっかり忘れてしまった。予備知識無しだったせいか、とてもつらい読書となった。
「献灯使」は二つの厄災を経た後の日本を描いた、近未来小説である。
各地が放射能で汚染され、鎖国状態となる。家電製品も使えなくなり、さながら江戸時代のようだ。通信手段は無く、海外の様子はおろか他県の状況すらよくわからない。老人は長寿化(もしくは不死化)し、子供は不健康かつ短命となっている。
このような小説中の設定が、読むにつれ少しづつ明らかになっていく。
だが、私には描写の具体例が馴染まないようだ。
特に外来語が使われなくなっている、という設定が鼻につく。
劇中では外来語が日本語化されているのだが、その事例が「暴走族的」すぎるのだ。
例えば
・ターミナル→民なる
・オフライン→御婦裸淫
など、ダジャレといってもよい変換がされている。
ここまで細かい設定が必要であったのかどうか。この箇所がなければもう少し読みやすかったと思うのだ。
もっとも、ここ最近このような感想を抱く読書が増えてきた。
以前読んだ「殺人出産」(村田 沙耶香著)という小説では、10人出産すると1人殺しても良い、という奇抜な設定がされている。
設定と背景はよく練られているのだが、この時代の流行りものがなんとも取っ付きづらい。そのひとつが若者のあいだで昆虫食が流行っているというものだ。劇中の少女がセミスナックを食べたり、主人公に薦めたりするシーンはなんとも違和感がある。
とはいえどちらも著者の創造力のたくましさを楽しむことのできる内容である。特に「献灯使」は実際の震災を絡めていることもあり、現実味のある警告として読むことができる。
不思議なことに、アニメでは設定の細かい部分が気になったことがない。具体的な絵があると違和感が緩和されるのか。それともただのアニメ好きなのか。
多分私自身の偏屈さが問題なのであろう。